STORY
Nostalgic Path
南を海に、三方を山に囲まれた鎌倉は、空から見ると急峻な峠に入り組んだ谷であることがよくわかる。太古の地殻変動によって生まれたというこの複雑な地形は、かつて「鎌倉城」とも呼ばれ、自然の要塞となっていた。およそ800年前(12世紀末)、この地に日本初の武家政権が誕生し幕府がおかれると、敵の侵入を防ぎつつ人々や物資を往来させるために、岩山を削った「切り通し」の道が作られた。地元の人は今も、その切り通しの内側をこそ、“鎌倉”と呼んでいる。
この切り通しの内側=旧鎌倉の西の奥にあり、昔ながらの佇まいを強く残しているのが「長谷」界隈だ。鎌倉大仏(高徳院・阿弥陀如来坐像)と、日本最大級の観音立像の長谷観音(長谷寺・十一面観世音菩薩像)はここにあり、それらを繋ぐ周辺エリアには、なんとも言えないレトロな懐かしさと新しさが交錯する。
鎌倉駅から江ノ電、長谷駅で降り、商店街を北上すれば、正面に鎌倉大仏として知られる高徳院がある。建造当時最先端だった宋様式の阿弥陀像、その大陸的なおおらかな姿は、いつの時代も変わらず雨の日も雪の日もこちらを向いて鎮座している。そんな大仏はこの街の象徴だ。
長谷の魅力を語るとき、地元の人が揃って口にするのは「温かさ」「安心」「ぬくもり」「優しさ」といった言葉。高徳院の門前近くで半世紀近くこの街を見てきた喫茶店『樹 いつき』の“ママ”と呼ばれる店主福井弘子さんは言う。
「大仏さまに見守られていると感じるからかしら、長谷の人は皆さんとても優しいの」 「よく見ると、長谷の大仏さまはちょっと他にないお姿でしょう。下を向いてね、背中はグッと丸まってね、なんとも優しい姿なのよ」。
その優しさに引き寄せられるように移り住み、いつしか根をおろした人は数知れず。福井さんもその1人だ。結婚を機に関西から鎌倉に移り住み、30歳の頃にこの店を開業。友人たちとほぼDIYで改装したログハウスのような店内は‘70年代からほとんど変わっていない。手作りの本格クレープやスコーン、鎌倉名物しらすのピザ。時にはお抹茶。彼女がキッチンで準備してくれているのを眺めながら話していると、居心地良さに安心し、ほっこり胸が温かくなってくる。何もかもが素朴で上品で懐かしい。変わらずに重ねられた丁寧な時間が、今の時代には尚更輝いて見える。
「長谷は切り通しに守られた鎌倉の中でも辺鄙なところにあるからなのね、昔ながらの風情が奇跡的に残っているのよ」。
この店自体がその奇跡そのもののよう。鎌倉が自分の地元のように感じられてくる。また必ず来よう。大木の幹からリスが降りるのを横目に、螺旋階段を降り、通りに戻る。
鎌倉のいちばんの魅力を「人との関わり」や「寛容さ」と言うのは、『鎌倉 長谷 珈琲&ガレット』のオーナー増田剛さん。
「昔から移住者が多いので、外部からの人に対して寛容ですよね。古都なのに排他的なところがない」。
彼自身もまた移住者で、生まれ育った東京・目黒と広告代理店での仕事を離れ、学生時代に住んだことのある鎌倉に2017年、自家焙煎珈琲とフランス家庭料理ガレットのカフェを開いた。
「鎌倉の道は、京都の碁盤の目のようにではなく、細い道が入り組んで行き止まりになったり車が通れなかったり。これは幕府があった場所にストレートに攻めて来られないようにわざとそうしたのですね。その延長線上に家がずっと建ち並び、複雑な路地になっている」。
「切り通しの外と中の違いは、いわゆる古都保存法の関係で、新しい家を建てられる制限があるかないか。ここらは結構厳しくて例えば昭和初期とか大正時代に建てられた家は改築を重ねていくしかない。江ノ電を横切らないと入れないなんていう家があるのも、現代の建築基準法で建て直しができないから。でも、そういった制約こそが切り通しの中の雰囲気を保っているんですよ」。
自然、歴史と文化、山と海、サーフィン、暮らしを大切にするところ、切り通しの中の守られた景観と複雑な路地裏…愛する長谷の魅力を語れば尽きることはない。
かつての文豪も長谷を愛した。豊かな自然と鉄道の利(明治22年横須賀線が開通)、皇室の侍医も務めたベルツ博士が鎌倉を療養の地に推奨すると、実業家や華族らが次々と別邸を構え、由比ガ浜は大いに賑わうようになった。明治以来、特に昭和に入ると、多くの文人が集い、移り住み、やがて「鎌倉文士」という言葉も生まれるほどに。
そんな鎌倉界隈の著名人・文化人たちが足しげく通った場所としても知られるのが、大仏通りに格調高くそびえる北京料理店『華正楼』だ。昭和14年(1939年)に旧華族の別荘として建てられた日本邸宅の3階の客間からは、遠景に由比ガ浜を一望できる。殊に鎌倉に住んだ映画監督小津安二郎や、日本を代表する文豪川端康成らは、仲間との食事会に好んで訪れたという。
見下ろせば手入れの行き届いた庭。今も細部まで磨き上げられ生き生きと感じられるお屋敷は、地元の人のお祝い事にも欠かせない名店だ。
「鎌倉の華正楼は昭和22年(1947年)に営業を開始しました。お祝いは毎年決まってここで、というお客さんが多いですね」と支配人の中村章彦さん。
一族で長年のお付き合い。中には宮参り・七五三・成人式・結婚式と“人生の節目の祝いはすべてここで”という人もあるとか。
「あの時の坊やがこんなに立派に! なんていう姿を見られるのは本当に嬉しいことですね」。
代々の特別な日に寄り添い、成長を見つめてきた場所だから、こんなに温かな空気に満ちているのだろうか。
「長谷自体もすごく暮らしやすいところですよね、子育てしていても安心で、みんな優しいですしね」。
大仏通りから東、長谷の氏神で最古の神社『甘縄神社』の山向こうに、ひときわ広大な敷地がある。これぞお屋敷のアプローチといった感の、青々と茂る森の門を抜けると現れる洋館は、旧前田侯爵の鎌倉別邸『鎌倉文学館』だ。アール・デコをアクセントに取り入れた和洋折衷の館と、見事な薔薇の庭園は、長谷の人気の名所でもある。時の首相佐藤栄作(昭和39年〜47年在任)が週末の別邸として一部を借りた時期もあり、由比ガ浜を遠望する3階のサロンで、首相は耳学問よろしく鎌倉文士たちを招いては交流し、テラスで演説の練習をしたという。
「鎌倉文士はそれこそ250人くらいいるけれど、長谷地区ではなんと言ってもノーベル文学賞を受賞した川端康成さん。甘縄神社の山の麓に住んで、その邸は今もあるのですが、『山の音』という小説に長谷の自然の響を描いています」と文学館館長・富岡幸一郎さん。
〜鎌倉のいはゆる谷戸(やと)の奥で、波が聞こえる夜もあるから(川端康成『山の音』)〜
潮騒かと思うような山の木立のざわめき。普段は鳥の鳴く長閑な長谷も、大風が吹くと怪しげに背後の山が鳴る。“仏界入りやすく、魔界入りがたし”と言った川端の感性は、この長谷の山と呼応したのに違いない。
「『山の音』じゃないけれど、自然の音やそこを見上げるだけでも、山を見ているだけでも楽しいですよね。山藤の花が年によっては、ものすごく綺麗に滝のようにかかる。四季折々が素晴らしい。だから別段どこに行かなくても、ただ路地を歩いていても、そこのお宅の庭に生えている梅とか紫陽花が綺麗っていうね、それだけで楽しい。路地が愉しいんですよ」。
大仏通りの西側、邸宅が連なる小道に誘われ奥へ奥へと歩いてみれば、袋小路の手前に『鎌倉能舞台』がある。ここは鎌倉に能を根付かせ、伝統芸能を次世代に繋ぐ試みを続けてきた、鎌倉の文化拠点のひとつだ。
「この辺は“谷戸”と(地形に)言うように袋小路になっていて、間違えて入ってくる観光客の方も多いのですが、そういう面白い発見もありますので、裏通りをゆっくり歩くのも楽しみ方のひとつかと」 とは鎌倉能舞台理事で観世流能楽師シテ方の中森貫太さん。
「私の父の代に神楽坂からこの鎌倉長谷に拠点を移したのです」。
「室町時代、能が生まれた頃にはもう文化の中心は京都奈良、西の方へ移っていたので、元々は鎌倉と能の結びつきはそれほど強くはなかったのですが、昭和33年に父が『鎌倉薪能』というイベントを始め、当時戦後日本全国で3番目に早く復活した薪能として非常に評判を取りました」。
鎌倉薪能は、最盛期には抽選倍率20倍という驚異的な倍率を誇り、これが鎌倉と能の結びつきを強く印象付けた。文化都市鎌倉というイメージもあり、今ではすっかり地域に溶け込んだ存在だ。
「鎌倉はもともと別荘やご自宅に能舞台のあるお宅も多くあり、うちでお稽古されるような方が多かった。文化的にとても恵まれた場所だったと考えております」。
なんと、能は見るだけでなく、お稽古事として自分で演じるものという世界なのだ。今も老若男女が稽古に通っているというが、この能舞台で驚くのは舞台と客席の近さ。席数は最大150席。舞台が低く、まさに手の届くような場所で仕舞を見ると、能の世界がぐっと近くに感じられ、自分も習ってみようかとさえ思えてしまう。長谷の小道は新しい世界へと繋がっている。
聞けば鎌倉市立の小学6年生は皆、授業の一環でここで能楽のレクチャーを受け、狂言体験をするという。また、地元の有志の小学生たちが集い、ひとつのきちんとした舞台を完成させる『子供能』の取り組みも続いている。なんと贅沢な体験だろうか。
文化と庶民性の同居しているのが長谷の魅力だ。海と山、寺社仏閣、文学館や能舞台、煎餅屋、八百屋、花籠屋、骨董屋、和菓子屋、新しいカフェや漢方店…。知る人ぞ知る名店と普段の生活が並列に並んでいる。昔ながらの八百屋でやり取りしながら旬の野菜や花を選び、老舗でお煎餅や和菓子をあれこれ迷いながら買うのも、楽しいひとときだ。
「長谷にはそういう庶民性が今も残っていますよね。自分たちの住んでいるところを大切に守るという意識が高いけれど閉鎖的じゃなく温厚な、外の人を受け入れるという風土がある」と鎌倉文学館館長。
甘縄神社の麓に居を構えた川端康成も、普段からあちこち散歩していたという。「川端さんの行きつけの飲み屋」「骨董屋さんでよく見かけた」「この床屋に通っていた」などという逸話が各所に残る。卓越した美意識の人川端も、この街のそんな温かな暮らしを愛したのだろうか。
地元の案内マップ『はせのわ』には“川端康成の散歩道”として、甘縄神社から由比ガ浜までをつなぐ裏道が示されている。そこは表通りを避けて地元の人の通る細い路地だ。静かな古民家が並び、時折道端に水路が顔を出し、水の流れる音がする。この道はもしや、まさに“川端の”道? 遡って水源を探してみたくなったが、ひとまず川端邸のある『甘縄神社』の方まで行ってみる。お宮に参拝していると背後の山の上から外国人が降りてきた。デンマークから仕事で訪日しているというその人は、大仏の高徳院の奥からぐるりと鎌倉の山の上を巡って歩いてこの神社に降りてきたという。「ぜひ歩いたら」と勧められた。古都の観光地に行くと外国人の方が却ってよく知っていたりする。
さて、甘縄神社の一本西側の路地に入ると、こんもりと緑に覆われた古民家レストランが軒を連ねる一角が現れた。オーガニックワイン、体に優しい鎌倉野菜を使用したイタリアンやフレンチ、とある。人を迎えるように生い茂る緑のアーチと夕暮れの灯に惹き寄せられる。
そのイタリア料理店『エッセルンガ』は鎌倉の中でも最古参の古民家レストランだ。現在は2代目の反町和弘シェフが腕をふるう。夫婦で鎌倉湘南を食べ歩いてこの店に惚れ込み、群馬・高崎から移住。この店に入り、和弘さんはやがて2代目のシェフとなった。
「鎌倉や湘南を色々回って、この店の雰囲気と、前の中村シェフの姿勢と料理がすごくいいなと思って」。
自社輸入のオーガニックワイン、体に優しい料理、きめ細かな対応。彩豊かな鎌倉野菜は毎朝鎌倉の市場で入手する。すべて当たり前のことだから、と反町さんは殊更にこだわりを口にしない。
「これからやりたいこと…って特にないんですが、庭の小さな花壇をキッチンガーデンにして、ハーブや料理に使うものを自分で育てられたらいいなって」。
反町さんが驚かされたのは、鎌倉の「時間」だ。(自粛前から)どこも夜は早閉まいで、仕事帰りの深夜に飲み歩くこともなくなってしまった。
「正直群馬の方が都会かな?って思うくらい。田舎っぽいところがありますよね。近所づきあいも、ものすごくいいのかなって」。
今は仕事が終わると「早く家に帰ろう」と思う。すっかり鎌倉時間に馴染んだということだろうか。
『エッセルンガ』の向かいにはカジュアルレストラン『グリーンスワード』。オーナーの小林 操(そう)さんの地元は葉山。長谷の祖父の家を改装しこの店を始め、次いで併設のゲストハウスと“フレンチ惣菜食堂”『charc(シャルク)』を始めた。レイドバックした雰囲気のテラスでBBQも楽しめる。まるで鎌倉に住んでいるような楽しみ方ができそうだ。
「海もあって山もあって、路地もあって。いいところだから、もっとゆったりと来て欲しいと思って。できれば3泊くらいしてね」。
そうだ、1日ではもったいない。暮らすように旅をして、ゆっくり会話を楽しんで過ごしたい。路地の下に流れる川を辿り、尾根のトレイルを登ってみよう。新しい店を探索し、歴史の面影を探し、老舗の思い出話を聞くのもいい。たった数日で、長谷が馴染みの場所に変わった。
また、ぬくもりの小径を歩いてみたい。